なかったら作ればいい – きみので暮らそ。

なかったら作ればいい

井澤さん

結婚を機にUターン

正憲さんは大阪から出身地に戻ったUターン移住者。紀美野のランドマークのひとつである野上八幡宮近くの自宅兼工房で、作品作りの傍ら、ギャラリースペースでのカフェ営業やアーティストとコラボしたイベント開催など、さまざまな企画・運営を行っている。

もともと、結婚を機に地元に帰るつもりだった。同じく陶芸家である幸子さんと紀美野に移住したのは二十数年前。「学生の延長で、学校の手伝いをしていたから、何も知らないまま帰ってきてしまいました。よく、相手の親御さんが結婚を許してくれたなと思います」と笑う。

進化し続ける場所

空いていた土地に柱を立て、屋根を乗せてアトリエを作った。起点となったその場所にはたくさんの友人知人が訪れ、彼らの手も加わって進化し続けている。壁ができ、床ができ、現在ではアトリエを併設するギャラリーカフェとなった。だが、「カフェは作品発表のひとつのかたち」だと言う。いろいろな人が出入りする中で、器というものの本質を追及してきた。「器は囲むもの、手に取るもの。日本の器の面白さである、機能主義ではない触感文化。ここを研究所にして、みんなでそれを楽しもうと考えました」。実際、カフェで使用されている陶器は、ひとつずつが表情豊かだ。見て、触れて楽しい。

紀美野は焼き物の産地ではない。それでも地元に戻ろうと思ったのは、自分を見つめ直そうと思ったから。田んぼの粘土で形を作って遊び、耕された畑では土器を見つけた。そんな記憶が創作活動の原点になっている。幸子さんも「自然に囲まれた静かな環境で創作活動できるのがいい。子供たちも紀美野が好き。住むならここがいいねと言っています」と語る。

それぞれの『紀美野』

子どもの数が減っているから、クラス替えがない。クラスメイト、学校ごとみんな仲のいい幼馴染で、総じて大人が心配するほど純朴。紀美野の楽しみは?「川遊びかな」それは夏限定、清流のある町ならではの遊び。いい場所をたくさん知っている。紀美野は高野山のお膝元。近所のお寺での修行体験も好きで、毎年参加している。普段の遊び場は紀美野だけれど、たまには街にも行く。自力で行ける範囲は限られているから、遠くに行きたいときには親と交渉する。そうすると、自然と家族の会話が増える。たまに行く都会はちょっと息苦しい。帰ってくると、「やっぱり紀美野がいいね」と、会話する。

子どもたちは生まれも育ちも紀美野だけれど、幸子さんは都会育ち。苦労されたのでは?「義母やおばあちゃんがいてくれるから、しきたりなどにいきなりさらされることはありませんでした。でも、餅まきには驚きました!なんで餅を撒くんだろう?と。いまでも思います(笑)」和歌山県ならではの餅まき文化には、大抵の移住者が驚く。「僕も訊いたことがあるけれど、不便は感じなかったみたいです。ご近所さんが、『どれだけ親がいるの』っていうくらい様子を見に来てくれました」。それから、「びっくりすることは虫、こんなでっかいの」。長女の里映さんが両手で作る輪は、かなり大きい。予期せぬ出会いもあれ、紀美野の暮らしを話すのはとても楽しそう。長男の岳丸さんは若き映画監督。オール紀美野ロケの作品を、加太映画祭に出品しているそう。「この町の雰囲気が好き。ゆったりしていて、自然が多くて」。カメラ越しのこの町は、どんな表情をしているのだろう。

創意工夫と、つながる縁

少しお話を伺っただけでも、井澤さん一家が紀美野を気に入っていることがわかる。けれど、正憲さんは、移住する側も、受け入れる側も、この町に寄せる気持ちだけで移住するのは難しいと考えている。「若い子が欲しいから入れる、そしたら賑やかになる…ではダメだと思います。呼んだからには責任を取らないと。移住してくる人も、何かひとつ、これ!というやりたいことがあればチャレンジできるけれど、それがないと大変です」。加えて、不便を楽しむ度量。「ないからできない、ことはない。なかったら作ればいい。この町には、創意工夫で何とかできる余地があります」。

創意工夫で、陶芸作品はもちろん、工房やギャラリーまでもを作ってきた。イベントを企画すれば、参加してくれるご近所さん、駐車場を貸してくれるご近所さんがいる。「僕たちは周りの人に助けてもらった。ひとりではできていません。移住は、地域のひとあってのこと。すごく大事にしてもらっています」。縁あって、マラソン大会のメダルの依頼を受けた。ユニークな作品は内外に好評で、参加者獲得にもつながっている。移住は、『ひととつながる人間力』が試されるのだ。

きみので暮らそ。